こういう老後になるとは思わなかった

「今をしっかり生きる」を心して。

人間は再生出来るのか。

おはようございます。
今朝も爽やかな朝を迎えました。
6:30現在、
室温 24.0℃ 湿度 45.9%
遠くでお寺の鐘が鳴っています。
朝の6時半に鳴らしはるのかな?
知らなんだ、知らなんだ。
働く事ばかりに集中して
住んでいる所の事は何も知りません。



もうツツジが咲いていました。
季節はどんどん移り替わるのですね。


夕食にブリの照り焼きをしました。
ネット先生に教えていただいて
一番簡単な方法を選びました。
フライパンで両面を焼いて
ポン酢にお砂糖を混ぜて
最後に照りを出しながらからめるだけ。
まあまあ美味しかったです。
魚の皮が好きなので
切り身を立てながら皮も焼きました。
ここでいつもなら失敗して
身が崩れて、汚い出来になるのが常ですが
昨夜はうまくいきました。
砂糖が混ざり切っていなくって
底に溜っていたのは失敗でしたが
甘味はちょうど良かったです。
本来のレシピはブリ大根でしたが
大根はレンチンで、気が進まないし
湯がく時間もなかったので省略しました。



昨夜も息子が帰っていました。
夕食の準備が遅くなり焦りました。
最近、そういう時に内臓のどこか
左わき腹辺り?が痛くなります。
なんとか食事の席にたどり着いた時には
ビールだけが救いです。
飲んでいると、だんだん身体が楽になるのですが
ただ麻痺させているだけなのでしょうか。


息子は今、本調子になっているので
こんな息絶え絶えの親を相手に
議論をぶっかけて来ます。
昨夜は亡くなった人間を再生出来るかどうか
の話でした。
その人の全てのデータがあれば
それを基に再生させるのは可能だと。
見た目だけでなく、記憶も感情も全て再生されて
第三者は亡くなった人間が蘇ったと
涙を流して歓喜に沸く事が想像出来ますが
本人は「あ、蘇った!」とは思わないのでは?
と思いました。
それはなぜかなぁと考えたら
自分としての連続性がないからなのでしょうか?
そう考えると、昨日の自分は今日の自分だと
脳が勝手に思っているだけで
昨日の自分はもう死んで存在しないのかも知れません。
「でも写真があるだけで、こんなに気持ちが楽になるのに
 本人が現れてしゃべったら…それは嬉しいで。」
と亡くしてしまった父親の事を偲んでおりました。
かわいそうな事をしてしまったと思いました。
何を言っているのか分からなくなりますが
とにかく…今を大切に生きる…これに尽きるような気がします。